サブスリー返り咲いてからのグダグダ感がひどい
おはようございます。サブスリーランナーだと胸を張って言えるようになって嬉しいぐちやまです。

その後、半分移住してしまった(?)土地で、瀬戸内海を眺めながら走っていたのですが、なんだか尾てい骨が痛み始め、腰椎も押すと痛いことに気づき、少しずつランがおろそかになっておりました。

くしゃみしても痛いのだから困ったものだ。
地べたに座り靴下をはこうとすると、「あいたたた!」となってひっくり返る有様。
薄い布団で畳の上に寝ていると、夜中に痛かったり違和感があって目が覚めることもある。それに...トイレで力むのも痛い(失礼)。
4月末は5日休足もしました。
そして、GW前半は、駅伝とハーフマラソンに出場。本当は、キャンセルして土曜や休日診療をしている病院や整体師のところへ行こうかと思っていた。だが、ドタキャンはよくないと思い、走ってしまった。マラソン中毒人間が、やめとけばいいのに走って怪我を悪化させるパターンである。
ところが...
なんと、5km駅伝2区間、翌日のアップダウン激しいハーフコース、それらをほぼ全力で走った結果...
治ってしまった。
痛みレベルが、80から10に下がった、みたいな。
(100は痛くて日常生活もままならないとすると)
もうほとんど痛くないのです。
昔、陸上部時代に、顧問の先生が「走って直せ」と言っていたが、それを実践してしまった。40代のおやじがやってはいけないことだろうとは思うが、とにかく劇的に改善してしまったのだ。
最近の練習はこんな感じだ。太字が前回のランネタからの更新箇所。。

本当はスピード練習を入れて5km区間も18分切りを目指すぞ!とか、ハーフもアップダウンにも負けず84分狙うぞ!とか言ってたんだ。でも全部達成できなかったっす。5kmは18分34秒、18分36秒。ハーフは1時間29分44秒。中途半端やな~~って言われそう。
休肝日を週6日まで増やしたのに、いまはそれが週2~3日になってしまった。
さすがにまずいと思って、アシックスの練習会で、例の40分BUと1000m TTを実施。

GPSウォッチを瀬戸内海を望む家に忘れてきたので、5月1日はおおよその記録だ。やはり、3月6日の記録から大きく落ちている。(最も遅い3月13日は30kmレース明けなので参考記録扱い)
継続するって大切だ。身体を絞るのは時間がかかるが、リバウンドは一瞬の出来事だ。体重計に乗りたくないくらい、お腹周りがぷよぷよになってきた。
明日は皇居で練習会、明後日は丹沢でトレイルだ。仲間と走れるのはうれしい。しっかり距離を踏んで、身体を戻しにかかりたい。なんせ、気づいたらサロマ湖ウルトラマラソンまで60日を切っている。このままでは、悲劇が待っていそうだ。
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かもめになりたいと真剣に考えていた
昨年突然帰任してから、今思えば、抑うつの症状だったと思われること。
3か月くらいはこんな感じだったな。
- ベッドから出られない
- 夜中に目が覚めて、その後眠れない(中途覚醒)
- 身体がだるい、軽いジョグがむちゃくちゃ苦しい
考えていることと言えば、自己否定。
「朝なぜ俺は起きれないんだ~ 情けない奴だな~ 俺ってもう無用だなぁ~」と思う
そして現実逃避。隅田川に浮かぶあのカモになりたい。いや、テラスにたむろする鳩になりたい、お散歩されてる犬になりたい、欄干に並んで佇むカモメになりたい。
豚でもいい。食べられてもいいや。それが人生なんだろ。
マジ何もしたくない。何もしなくていい世界に行きたい。
隅田川テラスをゆるジョグしながら、妻に話しかけた。
ぐちやま 「あのカモメになっちゃおうかな」
ぐちやま妻「お、いいね~ なれば?」
ぐ「なったら気づいてくれる?俺だよ~ぐちやまだよ~って鳴くよ」
妻「気づかないね。無理だね。」
そうか、気づいてくれないか。
まあ、いいや

妻はそばにいてくれるだけでいいんだな。妻と長く過ごせたのも、休職してよかったことです。
毒舌なめらかなぐちやま妻ですが、でも、一緒にいてくれて、ありがとう。
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休職しているKへ贈る言葉
ぐちやまは絶対にうつにならないと思っていた。
しかし、結局、抑うつ状態、という診断書をもらった。
ぐちやまは、ある友人が、同じ状況であったことを思い出した。
名前をKとしておこう。
以前、私は彼がなぜそこまで追い込まれたのか理解できなかった。でもいまは、わかる。そのような気持ちがわかる人間になれたことは、私はとても良かったと思っている。
Kは学生時代から、常にグループの中心であった。
Kがいるといないとでは大違い。そもそも、Kが声をかけるから皆が集まってくる。K以外には、企画やネタをブッコンでくるやつも少なかった。もしも皆で盛り上がりたいなら、Kを誘ってその気にさせればいいのだ。
Kはとってもノリがいい。
「お、それいいねぇ~ あいつも呼ぼう、あのクラスからも!」と彼があれよあれよと仲間を見つけてきて、飲み会も、カラオケも、草野球も、キャンプも、それは大盛況のうちに終わるのだ。
誰が見ても天真爛漫、悩みゼロ、留年しても気にしない、ぐちやまが2年中国に行っていたときも、かれは3留して待っていてくれた!(笑 同級生がみな卒業したと思っていたぐちやまは、彼とまた一緒に就活し、ぐちを言い合い、励ましあった。彼はいつも周囲を明るく照らしてくれた。
そんな彼も、転職をきっかけに、自信を無くし、会社を休むようになった。
多くを語らないが、債権回収の仕事だったようだ。しかも、定職に就かず生活保護をもらうとすぐにパチンコに行ってしまう人や、低賃金で働いてその日暮らしをする外国人労働者から、使用している携帯電話料金の支払いを督促する仕事だった。数億円にも上る債権の回収を、なぜか、彼が一人で担当していた。
言葉もよく通じない相手もいるから、1本の電話で2時間説明、説得、なんてことはザラだったそうだ。日本人相手の督促とは手間もかかり気持ちもすり減る。
「お金ないよ、ご飯食べるお金もないよ」という相手に対し、バイトでの収入、本国への仕送り金額、家賃、食費と紐解いていき、
「毎月5000円は払えるよね、払ってね」と諭すのだ。
そもそも携帯電話料金を滞納していれば、在留ビザが継続できない。
彼は、相手の親身になって、「日本が好きなんだよね?いたいんだよね?子供さんは日本の学校に慣れてしまっているし、帰国しても言葉すらろくに出来なかったらかわいそうですよね。あなたも帰国しても仕事はすぐには見つからないですよね。日本にいたいと思うのなら、公共料金はちゃんと払ってください。あなたのためを思って。。。」と優しく語る。
早朝から深夜まで、電話をし、記録を付け、(詳細は分からないが)外国人ユーザーの場合は、システム上での手作業も多くなったそうだ。
人を増やしてくれと言っても、上司は取り合ってくれなかった。回収率は悪くてもいい、なんとかやってくれ、と言われ、彼は頑張り続けた。早朝から深夜0時を過ぎるまで。月間残業時間は100時間を超えた。勤怠システムにつけられない時間帯もあるので、それを含めればもっと長時間だ。
ある日、顧客サービス担当役員から彼は呼び出された。
彼の隣には、課長、部長も並んでいる。
役員はなぜか、彼の回収率の低さを説明する資料を持っていた。パワポ10枚。そこには、日本の各地域の債権回収率に並び、Kの担当する部門の回収率の推移がグラフ化されていた。彼のグラフの線だけ、回収率が低い。
当然である、相手が違うのだから。
しかし、部長と課長は、「私の指導の責任です」と言った。反論をしなかった。明らかにKを個人攻撃している内容だったのに。「これはKの担当する顧客層が特殊で...」と彼を守る発言はできたはずだ。しかし、上司の二人はそれを拒んだ。
Kは、会社で初めて泣いた。
男が泣くなんてありえない、彼もそう思っていた。天真爛漫で学生時代にみんなを引っ張り、我々の学生時代を何倍にも明るく充実したものにしてくれたKの個性は、その場では、まったく誰の目にも留まらず、ただ、責任を全うできない無能な社員の烙印を押されてしまった。最後通牒だった。彼は、会社に行くことを、やめた。

彼はその時期に、母親が病気で後がないことにも、動揺をしていた。
しかし、それは周囲には伝えていなかった。親の病気が、少なからず彼の動揺の色を濃くしたことは否めない。しかし、彼がうつになった理由の本当のところは、それではない。
休職し、彼は家で過ごすうちに、少しずつ復職に向けて気持ちを整理していった。
しかし、休職に向けた産業医と上司との面談時、上司は信じられないことを言った。
彼はKの話を親身になって聴く態度を取り、うなずき、表情にも哀しさをたたえて、言った。
「親御さんの大変な時に、気づいてあげられなくて、申し訳ない」
Kは驚いて目を見開いた。
問題の本質はそれではない。Kを守ってくれず、最後通牒を突き付けられた現場でさえ、反論をせず、役員の的外れな批判を受け入れたのだ。Kを見殺しにしたのだ。そして、今は、人事の前で、さも部下を思う上司を演じ、親御さんの不幸への同情している。卑怯な男である。
サラリーマンは忖度の塊だ。忖度してなんぼだ。忖度してサバイバルする。忖度上手が生き残り、出世する。
なんと悲しいシステムだろう。
もしこんなシステムがはびこる職場なら、こちらから御免だ。
Kはいまも休んでいる。早期の回復を願ってやまない。しかし私は、まだまだ休んでいい、慌てるな、生き方は一つではない、人は何もなくても生きていける、と伝えてもいる。彼には好きなことをして生きてほしい。無理に、環境に合わせなくてよい。困難な仕事は投げ出していいんだ。自分がいなくても、どうにかなるんだ、会社ってのは。背負う必要はない。そうすれば、また皆が大好きなKに戻れるはずだ。実際、僕たちと話すときは、今でもいつものKなんだから。そのままで、いいんだよ。

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ぐちやま休職日記(3)転職そして2年間事件しか起きなかった中国赴任
前回までのあらすじ:
いわゆるニッポンの大企業から飛び出して、新たな会社で働き始めた。覚悟を決めて、舟を漕ぎだした。
希望に満ちて転職し、任された事業に邁進した。
中途だから何も知らない。必死に勉強した。幸い、部下の中に、自部門の商品を語らせたら全社見渡してもこいつの右に出る者はいない、というエキスパートがいた。しかも彼は、とっくにチームや部門を任されてもいい人間なのに、出世には一切興味なく、人に知識を伝えること、助けることを喜びとしていた。競争の激しいその会社では珍しい人種で、だからこそ、皆に好かれていた。彼のおかげで、私は自部門の商品を、学び、熱く語れるようになった。
全社横断のプロジェクトに、事業部代表で出るように言われた。
当時の上司にも期待されていたのだと思う。毎週の会議と、月一の経営陣への報告を、必死で乗り越えた。
経営陣への報告機会もあり、名前を覚えてもらった。
会社で最も大きな事業部(A事業部と呼ぶことにする)にいたが、プロジェクトに参加して半年ほどしたころから、社内の知らない人から電話やメールが突然くるようになった。物流部門がA事業部としての意見を聞きたいとか、顧客センターから、ウェブ情報のミスでクレームが多いのでA事業部で取りまとめて修正してほしいとか...。どうも、「A事業部に相談するなら、ぐちやまという人を頼るといいよ」とアドバイスされたらしいのだ。これって、中途の僕からしたら、一人前と認められたってことだ。素直に喜んだ。部門横断の全社プロジェクトに参画して本当に良かった。
しかし、プロジェクトに7割の力を使い、自部門はおろそかになった。
というより、自部門商品は成熟商品でもあり、打つ手が少なかったのもある。
全社プロジェクトで打って出る商品やサービスに力を貸すほうが、充実度が高かった。
それが原因なのか、入社3年目は評価も芳しくなかった。部下も数名会社を去っていった。
そんな中、突然中国赴任の打診があった。
3年目に中国赴任。思ったより早い。自分にとって転機になるかもしれない。
ぐちやまは、前職でも6年中国滞在。学生時代に留学経験もあり、中国語はマスターしている。
中国、かつて知ったる土地だ。
急速に変化する中国に、また身が置ける。これも天の計らいだ。

一つ残念なことに、ぐちやま妻は、かの国はあまり好きではない。
私は初めて単身赴任を経験することになる。
今考えれば、二人で行けば、私のメンタルももう少しバランスを保てたかもしれない。
部門としての送別会もそうだが、同僚と部下が個人的に開いてくれた送別会が嬉しかった。
意気揚々と単騎で乗り込んだ。
当初戸惑ってパフォーマンスも落ちたが、僕の上司の中国人(中国人が上司になったのは初めてだったが)と信頼関係を築いて、持ち直した。
しかし、正直、当初2年は事件しか起きなかった。
業績拡大のため、人員採用を続けるが、当然ぐちやまが採用した新派 VS古参派の権力争いが始まる。
中国のTOPも変わり、更に厳格な管理を始めると、古参派でこれまで勝手気ままにやっていた奴らのボロが出始める。
遅刻や領収書の不正はかわいいもの。
突然腰痛で休んで1か月会社に来ないのも別にたいしたことない。
営業車で往復3000km走って田舎に帰ったやつがいた。
さすが広大な中国だ(苦笑
ガソリン代も全部会社のカードで切っていた。なんちゅう奴じゃ。。。
ぐちやまも負けていないぞ。営業車にGPSを付けた。
しかし、なぜか半分以上が1,2か月で壊れる。すべて古参組のGPSだ。反乱である。
3000kmドライブ野郎は、解雇した。そしたら裁判所からぐちやま個人宛に書面が来た。どうも訴えられたらしい(苦笑
過去のGPS記録などを証拠資料として提出。裁判には勝ったが、別にうれしくはない。疲れるだけだ。時間の無駄だ。
まだかわいいものだ。
顧客とつるんでアンダーテーブル取引で私腹を肥やすのも、よくある話だろう。
自分で会社をつくって商品を横流し、年収の5倍稼いでいる奴もいた。
調査会社に委託して調べると、出るわ出るわ、不正の数々。
他にも。
重要顧客の取引が突然ゼロになった。部下がその顧客の女性幹部にセクハラしたようだ。
「俺はやってない!信じてくれ!誰があんなババアと...」とすごい剣幕で怒りながら反論していた。おい君、ババアは失礼だろう。
証拠をつかむため、接待で行ったカラオケボックスに行き、管理室で防犯カメラ画像を調べたら....事件の瞬間がばっちり映っていた。
彼は自ら会社を去った。
他にも、黒社会(やくざ)とけんかしてナイフで切り付けられ2か月入院したやつがいた。報復が怖くてその土地を離れてしまい、行方をくらましてしまう。どこに行ったのか。
彼は古参組のドンだった。高級車を2台所有していた。
結局尻尾はつかめなかったが、月30万円(JPY)で1000万円クラスは買えないだろう。
グレーのまま、彼は姿を消した。真相は闇の中だ。
しかも、彼も会社を訴えてきた(3回目の苦笑。新聞にもあることないことリークして、「それは本当ですか?」と現地のメディアが事務所に突然やってくる。ノックもせずに入ってくるから、こっちもビビった。どうなってんだ?
退職間際に、会社への不満を放送禁止用語入りの(苦笑x4)メールで全社にぶちまけたやつもいた。ご丁寧に日本語訳付きで。
日本の経営層にも入っている。
私が一時帰国した時は、同僚に心配された。「ぐちやまさん、あれ大丈夫?」
しかし、私はなぜかそれでも大丈夫だった。いい意味で図太くなっているな。
ここまで転職後4年、赴任2年目が終わるころ、僕は多くの人と信頼関係を築いた。
そして、昇格もした。年収も増えた。
こんなドタバタで事件しか起きなかったのに、よく昇格したもんだ。
体力的にも辛かった。精神的にも辛かった。でも、中国TOPが最終的に決めた昇格だ。転職してキャリアアップした実感があった。とりあえずここまでは及第点か。
そして、5年目で違う組織に入った。
そこで、私は突然、うまくいかなくなった。
つづく
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休職のススメ ~立ち止まってみよう、大丈夫だから~
少しメルヘンなタイトルかな?
休職してみてよかったことを考えてみた。
<妻と共に過ごす時間が増えた>
3年間の海外単身赴任で、なんだか少し疎遠になってしまったような気がする。子供のいない我々は、お互いに興味を失ったら、それは危うい。
中国で肺炎で入院し、そして休職して帰ってきた僕を、妻は温かく迎えてくれた。妻と過ごす時間が多くなり、妻の帰りを待ちながら食事を作った。「これとっても美味しいよ」と言ってくれると、本当にうれしい。夫婦はやはり一つ屋根の下に、いたほうがいい。
<充分な時間を使って新たなことに挑戦できた>
①断食
成田山新勝寺での断食は、水だけで4泊5日を過ごした。水と少量の食事ができることで、すでに十二分に幸せなんだと知った。5日目朝のお粥と梅干が、身体に沁みた。
②お遍路
ひたすら走り、途中から歩き、最後はバスに乗ってしまったお遍路。まだ道半ばのお遍路。般若心経を学び、仏教の本を読み、自問自答をしながら、歩き続けた。
人間は何もなくても生きていけることを知った。ぐちやまという人間が、如何に無駄なものを集め、無用なことに金を使い、むやみに感情をぶつけ、言葉を選ばず、身体をいたわらず、親を敬わずに生きてきたのか、気づかされた。
③マラソンに打ち込んだ
計画通りに練習し、1年ぶりのサブスリーに返り咲いた。うれしかったな。
マラソンは一生続けたい、ライフワークだ。マラソンのおかげで仲間が増えた。いつも語り合い刺激しあう戦友もいる。走るって素晴らしいことだな。
④ブログを始めた
お遍路の情報を発信したいという思いから、スタート。
長年取り組んできた糖質制限ダイエットを記録に残すことも始めた。
僕にとって自己表現の一つであるマラソンに一所懸命に取り組み、それを熱く語る場になった。
投資のことも、少しだが書き始めた。
最近やっと、休職について語りたくなってきた。
ブログは自分の生きてきた証を刻んでいく作業なのかもしれない。誰が読むのかもわからないけれど、時折、ふと帰って来てその刻まれた文字を眺める。過去の意識が記憶の底から湧き出てくる。未来の(今の)自分がそれに応える。少しは成長しただろうか、それともいまだに同じことに悩んでいるのだろうか。

やはり、休職してよかった。立ち止まって振り返る時間が必要だったんだな。
怖がる必要はない。人生金がなくても物がなくても、どうにかなるもんだよ。立ち止まって、ごろんと横になって、流れる雲をぼーっと眺める時間も、いいものです。
サボっているんじゃない。すこしピットインしているだけ。大丈夫。いずれ、また歩き出せる。
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ぐちやま休職日記(2)希望に満ちた転職
前回までのあらすじ:
いわゆるニッポンの大企業で、やってもやらなくても給料はみな同じ、という、生ぬるいところで気が狂いそうになった私ぐちやまは、転職を選んだ。そこでの5年間、もしかしたら頑張りすぎたのかもしれない。
新卒で入った会社で、13年勤めて、転職した。
私ぐちやまは転職当時37歳だった。少し遅い転職かもしれなかった。
しかしあまり気にはならなかった。海外経験もしているし、中国語も完全に使いこなしている。
「奥様は中国人ですか?」とよく聞かれるが、それは違う。
ぐちやまは、大和撫子(やまとなでしこ)が好きなんだ。
その転職直前、37歳のぐちやまは、90人ほどいた営業部隊の中で、年齢的に下から数えて4番目だったのだ。
海外である程度の責任を持っていたし、部下もいたのだが、帰ってきたら「ペーペー」なのである。下っ端だ。
なぜかって、いわゆるニッポンの大企業は、私より10年ほど先輩の時代、バブル前後で大量に人材を採用しているからだ。私の世代、さらにその下にかけて採用数は減っている。バブルで数千人だったのが、昨今は500名ほどか。それらが自部署に配属されるとは限らないから、5年間新人がいない、てこともある。
そんなわけで6年前に37歳だった私ぐちやまは、当時でも部門内の最年少の部類に入っていたのだ。
これって...年功序列的な要素が抜けきらない職場では、もう、大変な不幸なんですよ。
部下をマネジメントする、事業の責任を取る、そういった経験が人間を成長させる。
同様の経験は、人によっては学生起業で経験する。
しかし、いわゆるニッポンの大企業では、40歳でも部下に持たない人なんてごまんといる。
これではマネジメントという日々訪れる決断を迫ら得る状況は経験できないし、人間の幅は広がらない。
だから、転職した。
希望に満ちて、転職した。

みんながバリバリやってる新しい職場が刺激的だった。
入社していきなり部下がいた。みな年下だ。
前職より女性比率が多い。(業界的にはむしろ女性は少ないはずなのだが」)
後でわかったが、配属された事業部の60人のうち、ぐちやまより年上は4人しかいなかったのだ。
自分と同じ課長クラスは、全員僕より年下だった。
なるほど、成長する会社って、こうなんだ、と思った。
常に忙しい会社だ。リーマンショックを除き、常に前年比10-20%という成長の高さ。
だから、どんどん人が入ってくる。
その中で、去っていく人も多いらしいとは、入社前に聞いていた。
なにせ、中途が7割(?)という会社である。
競争は致し方ない。
人事評価制度はあるけれども、通常、切った張ったの末の勝ち負けは、人事の差配の外で決まるのだ。
その時のトップの考えと、それに追随する人の多さで会社の方向性が決まり、それに忖度できる事業部長&部長クラスがその部下である自分を必要なパーツのひとつ、と思ってくれさえすれば、生き残れる。パーツがきらりと光れば、いずれ重要な役割を担うようになり、経営者への道を歩んでいく。
それとは異なり、ニッポンのいわゆる大企業は、その必要なパーツの一つにならなくても、生きていける。石ころでも、座ってそれなりに俺やってる感を醸しだせば、首は切られないのだ。
でも、私は石ころで終わるのは嫌なんだ
マネジメント経験を積んで、経営を学び、事業家として成功するんだ。
この会社で、革新的だった創業者と、それを承継したプロの経営者(いくつもの会社を再生させてきた)から学ぶんだ。
そう思ったぐちやまは、覚悟を決めた。
それからこの会社で、前職にも増してさらにガンガン働いた。
中途だもの。頑張らないだめなんだよ
...
そう信じて、頑張った。
つづく
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ぐちやま休職日記(1) 退職届を出した
この日はいつか訪れるはずだった。
それは、会社を休んだ時からわかっていたはずだ。
いざその日になってみて、「そうか、俺やめるんだな」と、退職願を目の前にしてやっと実感を持った。

昨年9月から、8か月も会社に行っていない。
ここだけ読むと、「なんだこのサボリーマンは...」と思われても仕方ない。
それは誤解です。
行きたくても、行けなくなった、というのが正しい。
そう、私は、昔なら考えもしなかったのだが、心が折れてしまう経験をしたのです。
今振り返ると、貴重な経験でした。
よく言いますよね
「俺は絶対うつ病になんかならねぇ!」と言っている奴に限って、「うつ」になると。
私は、まさにその「俺はうつ病なんて」という側だったんです。
いくらなんでも俺は違うだろうと。
これまで苦しいことはあったけど、自分で道を切り開いてきたという自負があった。
いや、それはおこがましい。重要なポイントで、不思議と助けてくれる人が現れて、運よくここまでこれた。
小学生から中学生は、背が小さくて肩身が狭かった。
高校生は陸上部で走ることが唯一の自己表現で、授業は退屈だった。
第一志望の大学は落ちた。合格すると思って入学金を持参して合格発表の掲示板を見に行った。何度見ても自分の番号がなかったのは、ショックだった。
だったら、もっと難しいところを狙おうと思った。浪人して、現役の時では無理だった学校に入れた。その時は論文などの2次試験対策を徹底的にマンツーマンでやってくれる先生と出会うことができた。彼女がいなければ、合格はなかった。
大学では貴重な友人を得ることができたが、金銭的に苦しく、バイトばかりしていた。
中国からの留学生と仲良くなり、彼の実家に遊びに行った。初めての海外旅行が中国だった。23年前の中国の街は臭いし汚かった。でも活気があった。人々が元気だった。漠然と中国留学を考え始めた。
大学4年次、「日中政府交換留学生」、の掲示を見つけた。
「中国語能力をすでに有する日本人を、中国政府の負担で希望の大学に留学させる」というものだった。日本政府も中国人学生に奨学金を出す、相互の留学だ。
私は、中国語は大学1年時に第二外国語で基礎を学んだだけ。大学4年次ではすっかり忘れさっていた。
しかし、ゼミの教授が進めてくる。「ダメもとで受けなさい」と。
中国語の面接ではほぼ意思疎通もできないレベルだった。しかし、何の間違いか、合格してしまったのだ。(いまでもなぜ受かったのかはわからない)
ゼミの教授が進めてくれていなければ、やはり、今の私はいない。
そして私は、日中交換留学生として中国へ行った。単位互換がなかったので、2年留学したら、そのまま2年留年した。浪人を合わせると3年遅れだ。
中国では当初言葉が全く通じず孤立状態になった。しかし、中国人の友人がたくさんできた。何とか言葉を習得して、帰国して就職した。
就職先はいわゆるニッポンの大企業で、やってもやらなくても給料はみな同じ、という、生ぬるいところで気が狂いそうになる。中国勤務も経験したし、中国でのある地域の代表もやった。大きな受注も取った。しかし、この会社でのキャリアアップの限界を感じた。
13年勤めて、退職した。転職先は、成長を続ける会社だった。
成長する会社での新たな仕事に、私はわくわくしていた。
転職当初から頑張った。しかし、いま考えれば、それから5年間は、少し頑張りすぎたのかもしれない。
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